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国家の品格について(3)(天の配剤)
2006年1月18日
宇佐美 保
『国家の品格(新潮新書)』を読んでいますと著者の藤原正彦氏の「卑怯を憎む」態度に若干違和感を抱きましたので、先の拙文《国家の品格について(2)》同様に氏の著作を引用させて頂き、論を進めさせて頂きたく存じます。
先ず藤原氏は、
“日中戦争は、全く無意味な「弱い者いじめ」であって、 弱い者いじめをしたというのは、日本の歴史の汚点です。” |
と書きながら、次のように、日露戦争、日米戦争を正当化しています。
私は日露戦争および日米戦争は、あの期に及んでは独立と生存のため致し方なかったと思っております。あのような、戦争の他に為す術のない状況を作ったのがいけなかったのです。 |
しかし、日露戦争は兎も角、「日米戦争」に関しては「戦争の他に為す術のない状況を作った」発端は、藤原氏が指摘する「日中戦争」を引き起こした卑怯な日本の責任ではありませんか?
自分で種を蒔いておいて、他者に責任を押し付ける態度は卑怯ではありませんか?!
更に、「卑怯を憎む」藤原氏の記述とも思えない箇所が更にあります。
アメリカが真珠湾奇襲を「恥ずべき行為」と糾弾する唯一の根拠は、開戦前の宣戦布告を義務づけたハーグ条約です。 しかし、ハーグ条約以前は、当のアメリカを含めどの国も奇襲を主としていました。 ハーグ条約以降でさえ、一九一六年の対ドミニカ戦争でアメリカは、宣戦布告なしに奇襲、占領しています。第二次大戦におけるドイツのポーランドやソ連への侵攻も奇襲でした。ハーグ条約における宣戦布告条項は、単に開戦儀礼に関する取り決めであり、誰も重要なものとは思っていなかったのです。 |
この「真珠湾奇襲」に関する藤原氏の見解は、あくまでも藤原氏の論理です。
「卑怯を憎む」は「論理以前の問題」であって、説明も不要だとの氏の父上の教えではなかったのですか?!
更に、「卑怯を憎んでいたであろう」山本五十六連合艦隊司令長官は、真珠湾攻撃を、ワシントンでの開戦通告が手渡された後となるように作戦を立て実行していたではありませんか!?
私には大変不思議に思えます、藤原氏は、次のような実に立派な見解を披露して下さっているのに!
私は「卑怯を憎む心」をきちんと育てないといけないと思っています。法律のどこを見たって「卑怯なことはいけない」なんて書いてありません。だからこそ重要なのです。 「卑怯を憎む心」を育むには、武士道精神に則った儒教的な家族の絆も復活させないといけない。これがあったお陰で、日本人の子供たちは万引きをしなかった。 ある国の子供たちは、「万引きをしないのはそれが法律違反だから」と言います。こういうのを最低の国家の最低の子供たちと言います。「法律違反だから万引きしない」などと言う子供は、誰も見ていなければ万引きします。法律で罰せられませんから。大人になってから、法律に禁止されていないことなら何でもするようになる。時間外取引でこそこそ株を買い占めるような人間がどんどん生まれてくる。 家族の絆の中にいた日本の子供たちは、万引きなんかしたら「親を泣かせる」「先祖の顔に泥を塗る」、あるいは「お天道様が見ている」と考えた。だから万引きをする者は少なかった。卑怯なことをする者が少なかったのも同じ考え方からです。家族の絆が「卑怯を憎む心」を育て、強化し、実践させる力となるのです。 |
この記述を読めば、開戦前の宣戦布告を義務づけたハーグ条約が有ろうが無かろうが、宣戦布告前に仕掛けた「真珠湾の奇襲」は「卑怯」で「恥ずべき行為」ではありませんか!?
(他国の思惑は兎も角として、私達、「卑怯を憎む」日本人にとっては絶え難く、又、「日本の歴史の汚点」ではありませんか?!))
そして、開戦通告書を「真珠湾攻撃」の前に米国側に手渡す算段で、山本五十六長官は行動していたのに、駐米大使館の怠慢行為によって「真珠湾攻撃」後の通告としてしまい、「日本人は卑怯な国民」との烙印を押される羽目にした外務省の責任を問うべきではありませんか?!
それでも、次に引用させて頂きますように、藤原氏は、本当に素晴らしい提案をされています。
「卑怯」を教えよ いじめに対して何をすべきか。カウンセラーを置く、などという対症療法より、武士道精神にのっとって「卑怯」を教えないといけない。「いじめが多いからカウンセラーを置きましょう」という単純な論理にくらべ、「いじめが多いから卑怯を教えましょう」は論理的でないから、国民に受けません。 しかし、いじめを本当に減らしたいなら、「大勢で一人をやっつけることは文句なしに卑怯である」ということを、叩き込まないといけない。たとえ、いじめている側の子供たちが清く正しく美しくて、いじめられている側が性格のひん曲がった 嘘つきだったとしても、です。「そんな奴なら大勢で制裁していいじゃないか」というのは論理の話。「卑怯」というのはそういう論理を超越して、とにかく「駄目だから駄目だ」ということです。この世の中には、論理に乗らないが大切なことがある。それを徹底的に叩き込むしかありません。いじめをするような卑怯者は生きる価値すらない、ということをとことん叩き込むのです。 |
私は、この藤原氏の見解に全く同感です。
そして、次なるご見解にも同感です。
卑怯を憎む心があれば、弱小国に侵攻することをためらいます。側隠の情があれば、女、子供、老人しかいない街に大空襲を加えたり、原爆を落としたりするのをためらいます。占領した敗戦国の文化、伝統、歴史を粉々にしてしまうようなこともためらいます。 美的感受性があれば、戦争がすべてを醜悪にしてしまうことを知っていますから、どんな理由があろうとためらいます。故郷を懐かしみ涙を流すような人は、他国の人々の同じ想いをもよく理解できますから、戦争を始めることをためらいます。 |
このような見解を有する藤原氏ですから、今回の米国のイラク攻撃(そして、それに賛同した日本)を「卑怯!」の一言で断罪するのか!?と思いきや、次の記述でお茶を濁しているのです。
日本は、アメリカの鼻息をうかがい、「国際貢献」などというみみっちいことを考える必要はまったくないのです。本気で世界に貢献したいのなら、「イラクの復興は、イスラム教にどんなわだかまりもない日本がすべて引き受けよう。そのために自衛隊を十万人と民間人を一万人送るから、他国の軍隊はすべて出て行け」くらいのことを言えなければなりません。 世界に向かって大声を上げる胆力もなく、おどおどと周囲の顔色をうかがいながら、最小の犠牲でお茶を濁す、という屈辱的な態度なら、国際貢献など端から忘れた方がよいのです。そんなことに頭を使うより、日本は正々堂々と、経済成長を犠牲にしてでも品格ある国家を目指すべきです。そうなること自体が最大の国際貢献と言えるのです。 品格ある国家、というすべての国家の目指すものを先んじて実現することは、人類の夢への水先案内人となることだからです。 また、国家の品格というのは、それ自体が防衛力でもあります。 |
米国のイラク侵略に抗議する事も無く、「国際貢献」に関しても、「イラクの復興は、イスラム教にどんなわだかまりもない日本がすべて引き受けよう・・・他国の軍隊はすべて出て行け」との見解も、「卑怯を憎む」と大見得切っている藤原氏とは思えません。
今まで、「平和憲法」の日本として、「他国を軍隊で侵略しない国」としてアラブの人達(世界の人達)からの信頼を得ていたのですから、本来はこの面を強調して行かなくてはならなかったのです。
それなのに、藤原氏が「卑怯」と認識すべき米国の侵略に賛同して、「平和を守る日本」の看板を下ろし、「米国と同じ穴の狢」との烙印を押された日本が、「イスラム教にどんなわだかまりもない」と宣言しても、同じイスラム教と言えどもシーア派、スンニ派とに分裂し、更に、別民族のクルド人とも利害対立している中で、信頼を失った日本に何が出来るのでしょうか?
今や、アラブ社会に於ける「日本」同様に、私にとっては「落ちた偶像」と化してしまった藤原氏は、次のようにも中途半端な見解を披露されています。
日本ではあまりよいイメージで語られない「愛国心」という言葉には、二種類の考えが流れ込んでいます。一つは「ナショナリズム」です。ナショナリズムとは、他国のことはどうでもいいから、自国の国益のみを追求するという、あさましい思想です。国益主義と言ってよい。戦争につながりやすい考え方です。 一方、私の言う祖国愛は、英語で言うところの「パトリオティズム」に近い。パトリオティズムというのは、自国の文化、伝統、情緒、自然、そういったものをこよなく愛することです。これは美しい情緒で、世界中の国民が絶対に持っているべきものです。 ナショナリズムは不潔な考えです。一般の人は敬遠した方がよい。ただし、政治家とか官僚とか、日本を代表して世界と接する人々は当然、ある程度のナショナリズムを持っていてくれないと困る。 ・・・ 世界中の指導者が例外なく、国益しか考えていないからです。日本の指導者だけが「ナショナリズムは不潔」などと高邁な思想を貫いていると、日本は大損をしてしまう。 安全や繁栄さえ脅かされる。一般の国民は、ナショナリズムを敬遠しつつ、リーダーたちのバランスあるナショナリズムを容認する、という大人の態度が必要になってくる。 現実世界を見ると、残念ながらダブルスタンダード(二重基準)で行くしか仕方がないのです。無論、リーダー達の過剰なナショナリズムへの警戒は怠ってはなりません。 |
どんなに、藤原氏のように「武士道」、「武士道」と唱えていても、「日本は大損をしてしまう」と言い訳しつつ「日本の指導者の国益尊重を容認する」というのでは、世界は日本を信頼し尊敬しますか?!
その前に日本人が藤原氏を信頼し尊敬しますか?!
「武士道」を唱える藤原氏は、次のようにも書いているのに!ですよ!
最近、欧米の歴史学者の間で江戸時代を見直す動きが高まっております。彼らの興味は、江戸の高い文化水準やエコロジーだけではありません。ヨーロッパの貴族が支配者として権力、教養、富の三つをほぼ独占して尊敬されていたのに比べ、同じく庶民から尊敬された江戸の武士は、権力と教養はほぼ独占していたものの、まるっきり金がなかったということに一様に驚いているのです。 自分の草履取りより金がなかったという武士の貧しさについては、磯田道史著『武士の家計簿』(新潮新書)詳しく描かれています。 |
更には、「構造改革」を旗印にして登場した小泉首相に、我が日本国民はどう反応しましたか!?
朝日新聞(2001年7月27日)には、次の記事(小泉発言)がありました。
日本人は目標を立てるとまっしぐらに努力する。達成させる優れた国民性をもっている。税金を無駄遣いしない構造にしようというのが、構造改革の基本方針。痛みも伴う。だが、やる気をもって取り組めばこの国は必ず変わる。 |
そして、大多数の国民は、“痛みを耐える”と言いつつ、この小泉氏を支持したのです。
ところが、朝日新聞(2001年4月28日)には、小泉首相就任後の初記者会見での次の発言が載っています。
一自衛隊や首相公選制導入をめぐる憲法改正問題をどう考えるか。 「憲法9条は、日本は戦争の後遺症が強いから政治課題に乗せるのは難しい。だが、侵略されたとき命がけで戦う決意を示すのが自衛隊だ。『自衛隊が憲法違反』と議論させておくのは自衛隊に失礼だ。命を捨てる覚悟で難しい訓練をしている。そういう集団に敬意を持って接することができるような法整備、環境をつくるのが、政治として当然の責務だ」 「集団的自衛権はあるが行使できないというのが今までの解釈だ。私は憲法改正が望ましいという考えを持っている。国益に一番大事なのは、日米の友好だ。日本近海で共同活動している米軍が攻撃を受けたとき、日本が何もしないことができるのか。すぐ憲法解釈を変えろということではないが、あらゆる事態を研究する必要がある」 |
こんな支離滅裂な論理もへったくれもない小泉発言に対して、藤原氏は何故非難の声を上げないのでしょうか?
藤原氏は(一寸メチャクチャでもありますが)次のように記述しているのです。
数学の世界では、出発点はいつも、何らかの公理系です。公理というのは万国共通です。東西で寸分の違いもない。世界中のみなが同じ出発点を使っています。したがって何の心配もなく、論理的に突き進むことが出来る。 しかし現実の世の中に、公理系というものは存在しません。各人がみな違う公理系を持っているようなものです。受けた教育、家族関係、住んだ地域、育った環境、年齢、性別、何から何まで違うので、公理系は十人十色です。数学のようにはいかない。 逆に言えば、数学をいくら勉強したところで、現実において適切な振る舞いが出来るとは限りません。メチャクチャなことを言う数学者はたくさんおります。 |
先ずは、藤原氏は、“メチャクチャなことを言う数学者はたくさんおります”と書かれていますが藤原氏ご自身も「メチャクチャなことを言う数学者」の一人と思わざるを得ない点を示します。
藤原氏は “現実の世の中に、公理系というものは存在しません”と書かれていますが、藤原氏はお父上から、「武士道精神(卑怯を憎む)を叩き込んで頂いた際、“「卑怯はいけない」には理由も説明も不要!いけないものはいけない!”と言われたのではありませんか?!
(この件は、先の章《国家の品格について(2)》にても引用させて頂きました)
この“理由も説明も不要!いけないものはいけない!”として、私達が受け止めなければならない事は、 「公理」は、数学の世界に限定されること無く、現実の世の中にも存在するのです。 藤原氏の訴える「卑怯はいけない」は、「万国共通の公理」ではありませんか!? |
そして、
「日本国憲法」は「日本国に於ける公理」 |
ではありませんか!?
ところが、日本国の長である小泉氏は、「日本国の公理たる憲法」を「国益の為に変えたい」と発言しているのです。
更には、「日本国に於ける公理」に違反(?)しながらも存在している自衛隊が、「命を捨てる覚悟で・・・」との理由で、「日本国憲法」を変えるが、罷り通ってしまっては、“現実に即して、その都度「公理」を変更する”となってしまいます。
このような小泉氏の姿勢を是認する藤原氏ですから、「真珠湾攻撃」を「卑怯」とは感じないのでしょうか?!
そして、更に驚くのは、“侵略されたとき命がけで戦う決意を示すのが自衛隊だ”と平気で発言する小泉氏の政治感覚です。
国のトップは、国民(自衛隊員も当然含まれます)の生命の安全を、先ず第一に考える気概が必要なのではありませんか?!
この気概がないと、先の戦争の如く「国民全員も“一億玉砕”で、命がけで戦う自衛隊(自衛軍?)に続け!」となってしまいます。
それに又、藤原氏が唱える「武士道」を信奉する日本国民は、「命がけで戦う」のを「自衛隊(軍?)」だけに任せるのは「卑怯」と感じ、自ら“一億玉砕”への道を突進んで行くのではありませんか!?
しかし残念ながら、先の小泉発言からは、
”命がけで戦うのは自衛隊に任せ、 その自衛隊には敬意を持って接することができるような法整備、環境をつくるのが、 政治として当然の責務だ” |
との声が響いてくるようですが?!
確かに、藤原氏は、次のようにも記述しています。
武士道に明確な定義はありません。新渡戸稲造は『武士道』を書いていますが、それ は外国人に日本人の根底にある形を解説するための、新渡戸の解釈した武士道です。 「武士道というは死ぬことと見つけたり」で有名な『葉隠』にしても、山本常朝という人が口述した佐賀鍋島藩の武士道に過ぎません。 それでもやはり、私は新渡戸の『武士道』が好きです。私自身が推奨している「武士道精神」も、多くは新渡戸の解釈に拠っています。 |
しかし『葉隠』も、「武士道」です。
この「武士道」を信奉する方々は当然自ら“一億玉砕”への道を突進んで行くのではありませんか?!
その結果、何が生き残り、何が生まれるのでしょうか?!
私は、先に述べましたように「現実の世の中にも公理が存在する」と認識しています。
「卑怯を憎む」は「現実の世の中の公理」ですし、「殺してはいけない」も、「数学の公理」以上に、「万国共通の公理」と確信しています。
ところが、 “現実の世の中に、公理系というものは存在しません”と認識している藤原氏は、次のように記述しています。
一般の世の中の論理には、・・・絶対的に正しいことは存在しないし、絶対的な間違いも存在しない。真っ黒も真っ白も存在しない。 例えば「人を殺してはいけない」というのも、完全に真っ白ではありません。そもそも死刑という制度があって、合法的殺人が認められている。あるいは戦争になれば、敵をなるべくいっぱい殺した者が、世界中どこでも英雄として称えられます。だから、人殺しはいけないというのは、真っ白ではなく、真っ白に限りなく近い灰色です。 |
このように
「戦争ならば、人殺しも英雄」 |
との立場に居る藤原氏が次のようにも記述しています。
精神に「対立」が宿る限り、戦争をはじめとする争いは絶え間なく続きます。日本人の美しい情緒の源にある「自然との調和」も、戦争廃絶という人類の悲願への鍵となるものです。 日本人はこれらを世界に発信しなければなりません。欧米をはじめとした、未だ啓かれていない人々に、本質とは何かを教えなければいけません。それこそが、「日本の神聖なる使命」なのです。 |
如何なものでしょうか?
“美しい情緒の源にある「自然との調和」”を日本人が世界に発信する前に、日本人自身が“戦争と言えども人殺しは悪である”を「公理」として認識すべきと存じます。
この認識がないと小泉氏のように「国益」を振りかざして、米軍への協力(国際貢献)の名の下に日本(自衛軍?)を戦争の泥沼に突き落としかねないのです。
従って、この藤原氏の見解よりも、石橋湛山氏の見解に心を動かされます。
この件に関して、拙文《文系の方々も「理」の心を(5)(再び、靖国神社に関して)》の一部を抜粋し再掲させていただきます。
私は、『サンデー毎日(2004.12.26号)』のコラム「政経外科」に於ける、佐高信氏の安倍晋三氏を非難しつつの、石橋湛山氏に関する記述に感銘を受けました
佐高氏は、次のようにも記述しています。
湛山は安倍の祖父の岸信介がやった日米安全保障条約の改定に反対だった。一九五八年の夏、湛山は、 「現在の国際情勢を見ると、心配で夜も眠れない。日本国民はいつ戦争の不幸に再びまきこまれるかわからない。自分は病体を犠牲にしても平和を維持する努力をしたい。もしも世界の平和がそれによって保たれるならば日本は滅んでよい」 と演説している。湛山に傾倒した宇都宮徳馬はこれを聞いて「電気にうたれたような感動を覚えた」というが、…… |
この石橋氏の「世界の平和がそれによって保たれるならば日本は滅んでよい」との覚悟を持った国ならば、世界中から「品格ある国家」と尊敬されましょう。
拙文《武士道と自衛隊と勝海舟》には、藤原氏が傾倒する『武士道:新渡戸稲造著』から、次のように引用いたしました。(詳細は、拙文《武士道と自衛隊と勝海舟》をご参照下さい)
勝海舟の言葉に耳を傾けてみよう。・・・ 「私は人を殺すのが大嫌ひで、一人でも殺したものはないよ。・・・ 刀でも、ひどく丈夫に結えて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬといふ覚悟だった。・・・(『海舟座談』) これが、艱難と誇りの燃えさかる炉の中で武士道の教育を受けた人の言葉であった。よく知られている格言に「負けるが勝ち」というものがある。この格言は、真の勝利は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味している。また「血を見ない勝利こそ最善の勝利」とか、これに類する格言がある。これらの格言は、武人の究極の理想は平和であることを示している。 |
「刀でも、ひどく丈夫に結えて、決して抜けないようにしてあった」との勝海舟の「決して抜けない刀」は、全く我が国の自衛隊そのものではありませんか!?
(勝海舟は、「丸腰(全く武装していない状態)」ではなくて「決して抜けない刀(自衛隊)」を帯びていたのです。)
(更に、自衛隊に関しては、拙文《奇跡と仮城の平和憲法》にて、自衛隊は、法華経の説く「仮城」に相当するとも書きました)
更には、「平和憲法」に対しては、最近では、米国から押し付けられたから今や日本独自の憲法が必要などとの屁理屈を捏ね「平和憲法」を「戦争が出来る憲法」に変えようとする動きが活発化しています。
此処で、週刊金曜日(2006.1.13)から、班忠義氏(中国の作家兼映画監督)のインタビュー記事を抜粋させて頂きます。
日本国憲法をどう思いますか。 こんなにすばらしい憲法を持っているあなた方がうらやましい。よく米国からの 「押し付け」などといわれるが、憲法は、米国が世界の「花」、つまり人類の叡智のエッセンスを摘んで、日本に贈った神様からのプレゼント。日本人は、この平和憲法を護る義務があるし、平和憲法がない国や地域に広げればいいと思う。 |
如何でしょうか、私は日本の「平和憲法」は「奇跡の憲法」と認識して拙文《平和憲法は奇跡の憲法》を書きました。(どうかご一読を御願いいたします)
そして、私は、「天の配剤」という言葉が大好きです。
「自衛隊」そして、「平和憲法」は、私達日本人への「天の配剤」 |
であると固く信じているのです。
この「天の配剤」を守り抜く事、世界に広げる事こそが、天から選ばれた誇り高き日本人が果たすべき役割であり、その役割を全うする結果「国家の品格」が保たれるのだと固く信じております。
そして、藤原氏が説くように「日本が普通の国でなく異常な国」であるべきです。
日本が軍隊を持って「普通の国」となって戦争してどうなるのですか?!
私から言わせて貰えば、「軍隊がもって戦争する国が異常な国」であって、「軍隊を持たずに戦争をしない日本が普通の国」なのです。
こんなことを書く私は、世間からは「異常な奴」と言われますが、私は逆に「世間が異常」と思っているのです。